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文明と言葉、都市 ~文明の転換(2)~
世界最古の文明はシュメール文明と言われ、文字や都市の生成とともに発展してきたと言われています。それは文字による人間の支配、都市による農村の支配という文明であり、そうした文明からの転換が、現在求められているのかもしれません。
文字の前に(話)言葉があり、言葉の前に声があり、その前には伝えたい想いがあります。その想いのところにその人の真実の心、意識の波動があります。そしてそれが声・言葉になってもその波動は他者に伝わります。その波動・言葉を受け取るかどうかは受け手の側にかかっていますが、知らない言語でもその周波数のレベルから感じることができれば、想いは伝わることでしょう。
しかし近代人の多くはその波動レベルからでなく、言葉そのものの意味から、文字から考えるため、却って言葉が伝わらないかもしれません。
言葉が文字になると、文字自体が独り歩きするので、より伝わりにくくなります。そして波動から意味を捉えないと、言葉や文字は本心ではなく、嘘をつくことができるようになります。SNSやAIではフェイクニュースの方が多いかもしれません。
また言葉尻を捉えると言いますが、言葉をその文脈を外れて部分的に使うと逆の意味になることもあります。したがって新しい文明では、言葉や文字を表面的にではなく、その波動レベルまで深く受信することが不可欠になってくることでしょう。対面での視覚に捉われた会話よりも、電話での会話の方が、本心・波動が分かるかもしれません。
文字がない時代には、このような分断はなかったでしょうし、現代でもアボリジニ、アメリカやアフリカの原住民はこの違いが分かる人達が多いようです。我々が学ぶべきものでありましょう。
次に都市による農村の支配は、人間による自然の支配と言い換えることができます。人間が自然を思い通りにできるという考えのもとに現代文明は成立しています。人新世と言われるようにこれはある意味実現してきましたが、そのために人類は存亡の危機にあります。
人は「私は自分で生きている」と言いますが、自分の生死もほとんど自分で決めることは不可能であり、本当は「私は生かされている」ではないでしょうか。生命・自然に対する畏敬の念、感謝が必要です。命は個人の物だけでなく、水や食、空気の循環を通してすべて繋がっています。そうした環境と個人は分離しているのではなく一体です。
この意味では私が命をもっているというより、命が私を通して生きていると言うような意識転換が必要です。
農村と都市の関係は分離ではなく融合的、統合的な関係になるでしょう。都市の公園だけでなく田や畑で農作物を作り、里山で動物と共存する等改革は様々なところで起きることでしょう。ブルシット・ジョブでなく、生き生きと活動するエッセンシャルワークを生きることです。こうなった時、仕事と趣味、生活との差はなくなり、すべてが生命活動の一部として、命の発現として、アートになるのではないでしょうか。
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