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経験、法則、創造~進化と退化~ 2013年5月
浅 野 良 裕
「自分は経験という牢屋に閉じ込められていた」という某大学の学長の入学式における言葉が話題になっているようです。この意味するところは、自分の経験という狭い世界に閉じこもらないで、広く歴史や学問体系から学べということでしょう。確かに今の我々は、自分の世界に閉じこもり、自分の蛸壺の中から、周りを見渡し、目先の自分に利益がありそうなことにしか興味が持てない存在になっているといえるかもしれません。そして、もっと広い世界があるのではという潜在的な想いが、この言葉に対する反響の意味するものかもしれません。現代では情報社会といわれるように、インターネットをはじめ、各種メディアからあらゆる種類の情報が得られ、むしろ情報の過食状態といえます。即ちどの情報が正しいか、価値があるか分からなくなり、マスコミ情報に振り回されている状況ではないでしょうか?「経験を超えろ」という時、問題は2つあります。1つは個人の経験を超え全体を見渡せるような情報体系があるかどうかということです。大学においても教養教育が衰退し、また専門分野でも、既存の学問体系が、科学という名のように分断され全体が見渡せなくなっており、更に世界の状況は多くの問題を抱え、新しい展望が見えてこない状況にあって、それに応えうるどんな理論体系、法則があるかという問題です。これらを創造する実践・経験こそが今求められているのではないでしょうか?2つ目は、「経験というとき、自分の経験とは本当に自分の経験と言えるようなものなのか?」ということです。我々は誕生してから、親や家族、テレビ、ゲーム、学校等いろいろなところから、多様な情報を取り入れてきています。それらは本当に自分が感じ、考えたものなのでしょうか?ただ単にこれが正しいと教えられてきたことを、その通りに感じないと変だと思われないように演技してきたとは言えないでしょうか?このように考えていくと、自分の経験だと思ってきたことが、他人の経験の模写だったり、社会やマスコミから期待されてきたことの無意識の表現だったりするかもしれません。最近は自分が何をしたいのかが分からない人が増えているようです。特に日本では。こうした視点から見るとき、経験自体の質が問題となってきます。本当に心の底から、魂から経験をする時、新しい発見、感動、新しい発想、アイデアが生まれてくるはずです。趣味などではこれらの体験は生れやすいかもしれません。しかし仕事や政治の世界等でこれらの経験ができなければ問題です。言われたことしかできない。指示待ち族。自分で考えられない、付和雷同、等々。そして自分の個別的な体験を、普遍化、応用するためには、物事の本質、法則まで極める必要があります。本質、法則まで深まったとき、応用や新たな創造が始まることでしょう。経験をこのようなものにするためには、常に過去の経験からの固定観念や、外部の影響から自由でなければなりません。そのためのチェックポイントは、1つは先ほど述べたように、その経験から新しいアイデアや発見、感動等が生まれているかどうか?そして2つ目はブランドや学歴、身分、民族、性差、資格等の外面的な要素に影響されていないかどうかです。これらから自由になる時、自分の本当の経験、自己の本質に触れ、創造者となるでしょう
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