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分業と協業~近代的自我と超グローバル人材~ 2013年6月
浅 野 良 裕
先月は「経験」について、お話ししました。一つは、多くの人たちが自分の少ない経験の中に埋没し、狭い世界の中で生きていること。さらに、その自分の経験と思っていることも、実は他人の経験の模写であったり、教えられたことをそのまま鵜呑みにしているだけで、本当の意味での自分の経験ではないのではないかということ。(自分とは?)そして後者の、自分の経験ができないこと自体が、前者の狭い領域に閉じこもっていることの原因になっていること。こうした領域から脱出し自由になるためには、感性を研ぎ澄まし、直感を尊重し、経験自体を自分の深いレベルから体験していき、物事や行為、他者の本質を意識できるようにすること。これらによって新しい発見や、感動、感謝、アイデアが生まれ、創造的な人生が生きられるというものでした。最近、日本の国際的競争力の低下や、上記のような内向き志向への対策として、「グローバル人材の育成」ということが、政府やマスコミ等で盛んに言われて来ています。世界で活躍できる人材。英語等の語学を駆使し、多様な文化等を理解し日本の文化や歴史、意見を表現できるような人材です。しかし「グローバル人材」とは、それだけでなく、グローバルな課題を解決できる人材だと思います。今世界は地球規模での課題を抱えています。環境問題、経済的格差や財政、金融、経済危機、戦争やテロ等世界レベルでの問題解決が必要な課題が山積みです。単に国際的な場で渡り合うだけではなく、その中でリーダーシップを発揮し課題解決に向けて行動できるような人材を世界は求めています。このような人間とは、どのような個人なのでしょうか?近代的個人は、Individual、つまりIn(否定)dividual(分ける)これ以上分けられない最小単位として認識されています。Atom(分けられない)原子と同じように。この最小単位としての個人が、市民社会の最小単位として、経済的には市場の主体、政治的には参政権を持つ国家の最小単位として、社会の基盤として人々の集合意識の中で認知されています。つまり意識の前提、当り前のこととして考えられています。この最小単位としての個人は、経済社会では仕事を分かち合い、つまり社会的また職場内で分業しています。この時、職場全体や社会を見ながら仕事をすればともに仕事をする協業として、その仕事の分割として分業となります。しかし自分のする仕事しか見ずに、たんに作業をしていれば、その人の意識の中では分かち合いの分業=協業とはならず、周りから切れ、分離した作業をしているにすぎません。このような意識の構造が、自分の仕事=経験の中に埋没する原因となっており、また作業自体を自分の本質的な経験と感じられない原因かもしれません。21世紀の個人は、原子がさらに電子や陽子、中性子、素粒子に分割されてきたように、個人の意識も単にその顕在意識だけではなく、無意識層にある家族意識、トラウマ、企業文化、民族意識等の集合意識など他者との共通な意識も、認識できるようになってきました。グローバル人材としての個人は、このようにこれまでの個人の枠組みを超え、更に広く深い領域まで意識できる存在になることでしょう。市場の「見えざる手」が見え、生物や地球環境まで「見える化」できることがグローバルな課題を解決し、超えるために必要だからです。
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